蟲が生きる

生きることは戦うことでしょう?

ときには少年のように

 大野ヤスヒロは27歳のフリーターだ。

 彼は、人生を俯瞰するにはまだ若く、かといってその青春時代は遠く過ぎ去って、記憶の拠り所を喪失していた。

 とはいえ、その喪失感をじっくり味わっていられるほどの余裕もなく、彼は今日もせっせとスーパーの品出しのアルバイトに勤しんでいた。時給1000円のしけた単純労働なのだが、アルバイト故、働かなければ一銭も懐に入ってこない。あんまり下手をこいているとシフトも減らされる。

 

 牛乳を出して、卵を出して、納豆を出して・・・米、飲料、カレー、缶詰・・・。トラックで届いた物資を勤務時間が尽きるまで延々と売り場に陳列していく。

 基本的にロボットのような単純労働だが、ひとつだけ僅かに人間らしいオペレーションが求められる場面がある。

 それは、客に商品の場所を尋ねられるときだ。場所に限らず、いろいろ質問を受けた際には、取って付けた接客敬語でもって対応しなければならない。

 平日か休日かで違ってくるものの、毎日七時間の勤務のうちに確実に一回は話しかけられる。

 

 「すみません」

 ヨーグルト売り場の近くで、大野は話しかけられた。

 ここで働き出して約四ヶ月、もう客に質問されるのは慣れっこになっていた大野だったが、このときは少しぎょっとした。その声がとても幼く、そして自分の下方から発せられたからだ。

 「はい」

 振り返ると案の定、そこには少女が立っていた。

 小学生の少女だった。

 何年生かまで、大野には量りかねたが、幼児的な幼さを残したクリッとした目からして、せいぜい中学年(三,四年生)かそれより下ではないかと思った。

 彼女は品のいい淡ピンク色のタートルネックに灰色の薄い羽織を着て、青みがかった暗い色のスカートを履いていた。肩より少し長く伸びた黒髪は、直毛で艶やかだった。

 大野はにわかに緊張した。

 子供は苦手だった。

 まず、どう会話していいか分からない。

 何も気にせず、大人に対する態度と同様に敬語で話せばいいのかもしれない。だが、根がどこまでもプライド高く完璧主義者である大野は、年長者として、小さな子供に対するときの相応しい態度──すなわち、気さくで優しく頼りがいがあり、大人から子供への社会的愛をさりげなく供給できるような受け応え──を、ついつい模索してしまうのだった。

 しかもそれは、けして純粋な子供への愛などではなく、ただただ「立派な大人に見られたい」という自分自身の浅はかな虚栄心から来る思考なのであった。

 「ジェア、とってください」

 大野が少女に対する””立派な態度””を脳内で模索していると、彼女は売り場の中段を指差して言った。

 「とどかないの」

 彼女は売り場に向かってひょいひょいと手を伸ばして、届かないことを大野に伝えた。その仕草は幼さを印象づけて、可愛かった。

 ジェアという飲むタイプのヨーグルトを、彼女の背丈では手に取れないのだ。ジェアは大野の腹の辺りの、彼からすれば一番手に取りやすい場所に陳列されていたので、彼は彼女の物理的な小ささを改めて感じ、軽い衝撃を受けた。

 子供とはこんなにも小さかったのか! 久しく子供と交流していない大野は驚いた。

 「あ、あ~~はいぃ…」

 敬語なのか何なのか判別さえ付かない曖昧な返事をすると同時に、ジェアには幾つか味の種類があることに気づく。

 「いろいろ味があるけど、どれかな?」

 頑張って敬語を崩し、やさしいお兄さんっぽい感じで訊いてみる。

 四つほどの味を各種手に取り、少女に見せた。少女は少し考えてからぽつりと「いちご」と言って赤いジェアを取った。

 自分の手で握った、自分の手汗がついたジェアを直接取られて、大野はドギマギしてしまう。

 すると彼女は律儀に軽く”気をつけ”をして

 「ありがとうございます」

 とゆっくりはっきりお礼を言ってくれた。

 その仕草がとても可愛らしくて、そして間違いなく大野への純真な感謝を伝えてくれていて、大野の感情は瞬間的にビリリっと震えた。

 何を隠そう、少女はとても愛らしく、美しかったのだ。

 長らくフィクションの中でしか触れていなかった少女の神聖な少女性に、いま彼は触れた。

 遠い昔の記憶が呼び起こされる。脳にではなく、魂に。

 小学生の頃、大野はたくさんの幼すぎる恋をしたものだった。あるときは可愛らしい声の淑やかな女の子に対して、あるときは快活でボーイッシュな女の子に対して、ある日突然猛烈な恥じらいの意識が芽生えて、目を見て話せなくなってしまったものだ。

 そして今、彼はあの頃と全く同じに、目の前の少女を直視できなくなってしまっていた。

 「あぃ。・・・」

 耐え切れなくなった大野は、あまりにぶっきらぼうに返事をして早足にその場を去ってしまった。

 

 そして直後に、後悔が押し寄せてくる。

 なにが、「小さな子供に対するときの相応しい態度」だ! なにが立派な大人だ!

 少女が丁寧にお礼を言ってくれたのに、彼は「どういたしまして」の一言さえ言えずに逃げてしまった。

 「どういたしまして。また何かあったら声かけてね」ぐらいのことが言えたらよかった。だが、事実、彼にはできなかったのだ。

 今しがたのこの小さな経験が、少女の中に、大人に対する不信感を根付かせるかもしれない。少なくとも、彼女は大野を立派な大人とは思わなかっただろう。

 自分がみっともない大人であることを、彼は痛感せざるを得なかった。

 体は大きくなり、つまらない世渡りの知識は身に付けたけれど、彼の中身は小学生からさほど成長していなかった。その事実を突きつけられてしまったわけだ。

 

 (だが……)

 と、品出しを続けながら大野は思う。

 それはそれとして、素晴らしい体験だったな、と。 

 (あの頃も、そんな感じだったのだろうか)

 かつて少年の自分も、なんてことのない「ありがとう」とか、そいういう言葉がきっかけで、同い年の少女の美しさに魅了されていたのだろう、と。

 ひとつ確実に言えることは、自分が彼女と同じクラスの男子だったら、間違いなく彼女に恋をしていただろう、ということだった。

 彼女の美しい黒髪、ぱっちりとした瞳、少女性際立つ装い、汚れなき声、まっすぐな心、みな愛しかった。

 

 (彼女の人生が幸せでありますように……)

 大野は黙々と品出しを続けるのだった。