蟲が生きる

生きることは戦うことでしょう?

精霊幻想記にアニメの在り方の新たな可能性を感じます

 精霊幻想記、めっちゃ面白いね!

 いわゆる異世界転生なのだが、本当に丁寧に作られていて、よくできてる。

 改めて一話から見てみると、春人の記憶が流入してきた時のリオの困惑した感じとか、リアリティーがある。

 そしてセリア先生との出会い。この時のBGM、とても優雅で優しくてイイね。あああセリア先生最高だ。。。。

 そしてフローラ様を助けてお城に連れて行かれてからの、リオの物語が、本当に、一人の特異な男の人生をしっかりと描き尽くしていて、驚嘆に値する。

 ありきたりといえばそうかもしれないが、貴族の通う学院で差別的な仕打ちを受けながらも、それに耐えて成長していくリオの少年編が面白い。

 

 そして、何よりもセリア先生を軸とする物語の描き方が、非常に巧みで、感動的だ。

 第三話まで、セリア先生は時折12歳の少女の幼さを見せながらも、歳下のリオ達にとっては、聡明でしっかり者のお姉さんという側面が強かった。実際それは事実だし、僕ら視聴者もその印象を強く持ったものだ。

 しかし第三話の最後の回想EDでハッとする。セリア先生がリオとの記憶を失いたくない大切なモノとして想起しており、彼女がまだ幼さを残す少女であり、リオが彼女をとても大きな存在に感じていたのと同じように、彼女もまたリオをそう感じていたのだと気づかされる。

 

 そして第四話から、リオは八雲地方に向けて旅に出る。セリア先生は作中にほとんど登場することなくストーリーが展開していく。一方でラティーファをはじめとする新たなキャラクター達と出会い、親睦を深めていく。

 ここに一人の人間の人生としての強烈なリアリティを僕は感じる。

 旅に出れば、かつて親しくした友人とは会えないのだ。友人の人生が今どうなっているのかも知りえない。出会いと別れが人生を彩っていく。一人や二人ではない。短い人生の中でたくさんの人と出会い、別れる。優しく温かい人もいれば、気難しい人や、狡猾な人もいる。そういうことが、けして奇を衒うことなくストレートに丁寧に、話数を割いて描かれていた。

 第10話、八雲地方から帰ってきたラティーファとお風呂で話すシーンは、作中の中でも特に印象深く、好きなシーンだ。

 長い旅の中でリオが自らの人生の目的を確認していくのも興味深い。

 人はただ、自分の人生を生きることしかできない。ラティーファやサヨをもっと愛してあげたいが、そうもいかない。こんなにもたくさんの人たちとの出会いの中にあってもなお、親の仇討ちという、自分に課した運命に突き進んでいくリオ。そこに哀愁に似たものを感じる。

 7話に及ぶ長大な尺を割いて「人との出会いと交流」を描いてきたからこそ、リオという男の人生に対して、色々と言葉にならない感情が芽生えるのだ。

 

 そして第10話でベルトラム王国に帰還するリオ。

 ここでようやくセリア先生の物語が再び動き出す。リオが不在の間に政略結婚をさせられることになってしまっていたのだ。

 嗚呼、なんということだろう!

 かつてあんなにも優しく大人びていて、母親のようでさえあり、聡明で偉大に見えたセリア=クレール先生が、実際のところは、貴族達の政治の道具として扱われてしまう弱い存在でしかなかったのだ!

 はっきり言って凄く悲しい気持ちになった。

 現代人は「何者でもない自分」に悩み苦しむことも多い。だが封建制度の元に成り立つ旧時代の世界では逆に「自分が何者であるかを決めつけられる」悲しみがありふれていたのだ。

 かつて大人びて見えたセリア先生は、本当はまだ非情な現実を知らずにいる子供だった。お姉さんのように見えた優しい笑顔は、本当はただ幼い子供の笑顔だったのだ。。。

 

 というわけで第11話まで見た。

 クレール公爵家の娘であるという自覚を持ちながらも、抑えられない感情を抱えるセリア先生が切ない。

 次回のリオの行動と結果がとっても気になる。

 

 精霊幻想記はとても丁寧に作らていて、しかも人の人生について感じ考えられる、とても素晴らしいアニメだと思う。