蟲が生きる

生きることは戦うことでしょう?

歩き旅

 このたび、二〇一六年十月十一日から同年同月十三日にかけて、岡山県津山市から兵庫県姫路市までのおよそ九十キロメートルの道のりを徒歩で旅した記録を書き留めることとする。今この文を書いているのは二〇一七年の秋であるゆえ、私は一年前の記憶を思い起こして文字にしなければならない。よって細部に至る正確性は保証できないことを、まず始めに付記しておく。

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 十一日夕方、十六時頃、私は津山の自宅を後にした。半月前に会社を退職して半引きこもりの生活を送っていた私は心身ともに不健康になりつつあり、PCモニターに映るどんよりとしたインターネットの世界に飽き飽きしていたし、単純に身体が運動を求めていた。どこか遠いところまで旅をすれば、自分を見つめ直せるかもしれないと思った。家を出る時点で、徒歩で姫路を目指すことと、道端で野宿するかもしれないことを覚悟していた。だから夜の寒さを見越して大きいリュックサックに長袖ジャージと真冬用のコートを詰め込んだ。服装は上は肌着に長袖シャツ、下はジーンズの長ズボンだった。ポケットに財布とスマートフォンを入れて、リュックサックを背負い、家を出た。旅の始まりはとても楽しい気分だった。これから自分が冒険者となる感覚、子供の頃に校区外の見知らぬ町を何のアテもなく探検してわくわくしていた感覚が再来した。まずは近所の大型スーパーで食料を調達した。何日で姫路まで行けるか不明だったが、少なくとも三日はかかると思っていた。道中にも食料品店はあるかもしれないが、食料を携帯していたほうが心強いに違いなかった。私は主にパンを買った。蛋白質も必要だと思い、うるめイワシの干物も買った。荷物が重くなるのを嫌い、飲み物は500ミリリットルのペットボトルだけにした。砂漠を行くわけではないので、水に困ることは無いだろうと判断したのだ。買い物を済ませると、もう私のリュックサックは荷物でぱんぱんに膨れていた。私はいよいよさすらいの旅人となり、歩きながら翳り始めた空を見上げたり、ときに道端の綺麗な花の前で立ち止まって、単純にその美しさを眺めたりした。国道53号線に出てからはてくてくと歩を進め、イオンモール津山の辺りに来た時にはすっかり日が暮れ、体はほどよい疲れを感じていた。私はスマートフォンの地図アプリを確認し、ちょこまかと小道に入らずに愚直に国道179号線を進むことに決めた。私の携帯モバイルバッテリーはせいぜいフルチャージ一回分であったため、地図アプリに頼って難しい道を選択するのは電池切れの恐れがあった。長旅は分かりやすい道を行くのが良い。イオンの手前で179号線に入ると、これまで道路沿いに並んでいた商業施設たちの姿がぱたりと途絶え、道は俄かに暗くなった。ときおり歩道が消えて幅の狭い路側帯になると、私は身の危険を感じながら疾走する自動車の脇を体を縮こまらせて歩かなければならなかった。田舎の国道は車のためのもので、歩行者に配慮するまでの余裕は無いのだろう。セブンイレブン津山大崎店に立ち寄ってトイレを済ませ、その手洗い場で空になったペットボトルに水道水を入れた。流石に何か買わねば店に悪いと思いパンを買った。店の前でパンを頬張り、夕食とした。ちなみにその後の道中では朝昼夕の食事の概念は消え、“腹が減った時に食う”という状態となったため、この先食事についてはほぼ述べない。私はこの時点で、今日は早めにどこかで野宿して明日早朝に旅を再開したいと考えていた。それでセブンイレブンを発った後は風を凌げる寝やすいポイントを探しながら歩いた。しばらく歩くと三方が壁で囲われた屋根のあるバス停が現れた。内部のベンチも綺麗だったので、ここで寝ようと思った。道の向かいにはさんれいフーズ津山営業所があり、電光の下にたくさんのトラックが停車していた。このとき時刻は十九時半。最初たらたら歩いていたわりには四時間足らずである程度の距離を踏破できたことに順調な気分だった。しかし、ジャージとコートを着込んでベンチに横になったまでは良かったが、寝ることができなかった。私は野宿を舐めていた。木でできた硬いベンチの上で横になると五分も経たずに腰と背中が痛くなり、私はその度に姿勢を変えなければならなかった。三方が壁に囲まれているとはいえ、秋の夜の冷気は容赦なく冬物のコートを浸透して私の体を震えさせた。一時間半ほど寝られないまま目だけを閉じていたが、二十一時過ぎに予定変更を決めて、夜のうちに歩くことにした。歩けば体が温まるので夜の寒さに対抗できる。そうして暖かい日中に寝ようと思った。

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 勝央町から美作市に入るまでの道程はまだ街明かりがあり、自動車も頻繁に通っていたが、梶並川を渡ってからは一気に暗闇が辺りを支配した。足元がよく見えないので、道に生える雑草や転がる木の枝にさえ警戒心を持たなければならなかった。スマートフォンのライトをつけて歩くと心強かったが、ずっと点灯しては電池が減るので、とりわけ暗い所だけ点けて歩いた。江見の市街地を後にすると道路の左右はもっぱら山か川かになり、街灯も全く立っておらず、いよいよ光を発するものが無くなった。ときたま通る大型トラックのフロントライトが道を照らしたときだけ、周りの景色を把握することができた。私はその日、ひょっとすると生まれて初めて、夜の暗闇の恐怖を身をもって感じた。それはとても本能的な恐怖だった。道沿いの林が風ではない何かによってガサガサと揺れるたびに、私は猪か熊かあるいはもっと恐ろしい肉食獣を想像して背筋が凍った。深い闇の中において、アスファルトで舗装されたこの国道だけがかろうじて自分を守る「文明」だった。闇に急かされるように、私は歩いた。終わりの見えない暗い道を延々と歩いてクタクタになった私は、ようやく小さな住宅地域にたどり着くと、久しぶりに見る街灯の光に心から喜んだ。そしてそれの下でばたりと仰向けに寝転がりリュックサックを抱いてしばらく意識を失うように寝た。

 泣きたくなるほどの寒さで目が覚めた。街灯の下に倒れ込んでからまだ一時間も経っておらず、空はまだ暗かった。おまけに霧が立ち込めていた。冷たいアスファルトが私から体温を奪い尽くしていた。怖いほどの勢いで歯がガタガタと音を立てた。比喩でなく体が震えた。体温を回復するため、とにかく歩かなければ、いや、走らなければならなかった。私は疲れも忘れて駆け出した。幸いにもしばらくの間、街灯と歩道のある道が続いた。走って、ばてて、歩いてまた走ってを繰り返したが、夜も更けに更けた午前四時頃の世界はやはり凍えるように寒かった。私の一生の中で、これほどまでに朝の陽の光を待ちわびた夜はきっとないだろう。様々な古代文明の神話で太陽の神が祭り上げられたのにも納得がいった。しばらく行くうちに街灯と歩道は再び姿を消し、県道46号線が合流してきて少し進んだところで、この旅一番の暗黒に出くわした。道も林も山も空も区別がつかない、墨汁に浸したような闇が行先を覆っていた。ただただ、怖かった。私はそれ以上の進行を諦め、座して夜明けを待つことにした。アスファルトにべったり寝ては体温を奪われることを学習した私は、座りこんで日の出を待った。

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 一時間ほどそうしていると空が白み始めた。混沌の中に光が現れて、山と空を分け隔て、つづいて道と林を秩序づけた。いまだ濃霧が辺りを満たしていたが、それも太陽がじわりじわりと溶かしていくようだった。私は再び歩きだした。早朝の空気はとても気持ちよく、私は二時間ほど休むことなく歩き続けたと思う。ヘアピンカーブの二、三連続する峠を越えると、豊かな水田の拓けた景色となった。時期的におそらく稲は刈り取られた後だったと思うが、それでも山間に広がる田畑は美しく気持ちの良いものだった。犬を連れて散歩している婦人を見かけた。歩行者を見るのは久しぶりで、なんだか懐かしい気持ちになった。ヤマザキショップかげやまというコンビニでトイレと食料調達を済ませてさらに進むと、そこからは民家や学校などが並ぶ町となっていた。しばらく行くと右手にJR姫新線上月駅が現れた。ここで電車に乗れば津山まで帰ることもできるが、その時の私はここまで来たからには絶対に姫路までたどり着くぞという強い気持ちを固めていた。私は駅の待合室の椅子の上に寝転び二時間弱ほど寝たが、やはり硬い椅子の上では安眠できなかった。睡眠不足を分かりつつも仕方なく旅を続けることにしたのだが、私は歩くうちに新たな困難に相対した。左の足の裏の筋が痛くなってきたのだった。歩き旅において足の負傷は致命的だったが、しかし泣き言をいっても仕方なく、私は地面を蹴り上げる度に足の裏が痙るような痛みに耐えながら歩いた。上月駅から佐用駅まで向かう道の右手に川があった。私は炎症を起こしている足を冷やすために、川辺に降りて裸足になって綺麗な川水にそれをつけた。足がひんやりと気持ちよかった。水は透き通ってきらきらと輝き、せせらぎは私に自然の中に生きている実感を与えてくれた。私は綺麗な川が大好きだ、と改めて思った。

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 佐用駅の辺まで来ると、いよいよ「たつの市 この先○○キロメートル」といった案内板を目にするようになった。たつの市を過ぎれば姫路市である。私はゴールを意識した。だが後から振り返ってみると、ここからが旅の辛さの本番だったと思う。

 佐用駅を過ぎると傾斜のある道が続いた。登ったり下ったりの連続は足に負担をかけた。当然左足の痛みは増していき、ついには右足も痛くなってきた。一歩一歩足を前に出すことがしんどくなってきた。私は歩数を数えて自分を励ました。千歩進んだら少しだけ休憩して、また千歩進むようにして、まるで筋力トレーニングのようにして歩き続けた。徳久バイパスの長いトンネルを抜けるとまた川があったので再び足を冷やしたが、もはや痛みがひくことはなかった。プチマルシェ徳久店でトイレを済ませた頃には、足が限界を迎えようとしていた。そこから先、私はのどかな田園風景の中を足の痛みに顔を歪めて歩き続けた。特にJR三日月駅周辺の道のりは山と田んぼの織り成す日本らしい風景であり、全体として印象に残った。まもなく、私は長く続けて歩くことができなくなった。また、ときおり足の裏に猛烈な痛みを感じてその場にうずくまった。

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 それでも私は歩き続けた。私の希望となっていたのは志んぐ荘というホテルだった。そこのホテルは当時は宿泊せずとも浴場だけ入ることができたので、私はそこに立ち寄って湯に浸かり疲れを癒そうと考えた。とぼとぼと歩いて道の駅しんぐうまで来た時にはもう二十一時か二十二時ぐらいだったと記憶している。道の駅内の食堂などは既に閉店していた。私は外に設けられたテーブルベンチに座り込み、テーブルに伏した。隣では老人が煙草を吸っていた。無職で金のない私にとって煙草は贅沢品であり、私は率直に老人が羨ましかった。「50円払うので一本頂けませんか?」と言おうかなと思ったが、結局言わなかった。老人は去っていった。私はしばらく寝て、そして志んぐ荘に向けて旅を再開した。印象的だったのは、損保川の西岸からホテル志んぐ荘へと架かる吊り橋だった。赤色の、貧相な橋板の吊り橋が綺麗にライトアップされていた。歩行者のみ通行可であることが厳重に注意書きされており、実際渡ってみると、揺れるし部分的に損傷している箇所があるしで怖かった。そうしてホテルにたどり着いた私であったが、フロントに入浴したいと申し出ると、この時間帯は閉めていると言われた。私はがっかりした。私は事前にスマートフォンで入浴可能時間を調べて確認していたのだが、ささいな表記の不正確さ(私の主観では不正確だったと思うのだが、当時ひどく疲労していた私の認識間違いだった可能性もある)によって私は勘違いをしてしまっていたのだ。フロントマンは特別に配慮してくれると言ってくれたが、それはホテルに悪いと思った私はお断りし、そこを後にした。いよいよ日付の変わる時間帯になってきた。結局のところ私は津山の自宅を出てからろくな睡眠をとれておらず、足を痛め、入浴もできずに旅の二日目を終えようとしていた。だがしかし、とにかくもう歩くかなかった。まとまった時間を休息にあてても、野宿では深くは眠れないし、疲れもとれないのだ。私はふと高田渡の「生活の柄」という歌を思い出した。私の父がよく口ずさんでいた歌だ。まったく私のこの旅は、「生活の柄」の実践証明であったと言えるだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=XcUhACXKx7g

 姫路市街までたどり着けば、まともな宿もあるだろう。そう思って足を引きずりながら歩くのだが、すぐ限界がきて道端の空き地にごろりと寝ころがった。そんなふうにしながら損保川沿いを南下していると、前方にパトカーが停まった。そして警察官が四、五人も降りてきて私の方に近づいてきた。ぼろぼろの足で逃げられるはずもなく、私はリュックサックの中の物を全部出させられ、職務質問をされた。身分を聞かれて「無職です」と答えるとき、少しだけつらかった。道端で寝転がっているのを一般人に目撃されて、通報されたらしかった。警察官に囲まれて痛くもない腹を探られるのは気持ちの良いものではなかった。ようやく解放されると、私は足の痛みを我慢してすたすたと歩いてその場を離れた。足を引きずって歩けば、ドクターストップならぬポリスストップでこの歩き旅を強制終了させられるかもしれないと思ったからだった。意外なことに、これが良い転機だった。私はもはや痛みを無視して心を無にし、すたすたと歩くだけのロボットのようになることを習得した。あとは特筆することはない。ただ歩いただけだ。ひたすら歩いて、明け方前にマクドナルド姫路太子町店にたどり着き、適当に注文して(温かいものが飲みたかったので紅茶を頼んだことを覚えている)シートで少し気を失うように寝た。その後朝六時か七時頃に店を出て、やはりまたひたすら歩いて、国道二号線に入り、お昼を過ぎた頃に姫路城付近に到達した。マクドナルドを出てからは本当に十歩も連続で歩けないほど足が痛かったが、文字通り歯を食いしばって歩いた。GRANRODEOの「Once&Forever」という曲の「痛みだけを確かめるようなそんな弱さ今越えていけ」という歌詞を頭に浮かべながら歩いた記憶がある。

 以上が旅の全容だ。姫路市街についてからも色々たいへんなことはあったが、結果だけ言うと、銭湯で湯に浸かったあと駅前のネットカフェで一夜を明かし、翌日JR姫新線に乗って自宅まで帰った。足裏の痛み・違和感はその後一ヶ月以上は続いたと記憶している。