蟲が生きる

生きることは戦うことでしょう?

拙者「日常/非日常ハイブリッド物語」大好き侍で候

注意

 いくつかの物語作品のネタバレがあります。ストーリーの核心に触れるネタバレは無いつもりですが、ご留意ください。

 僕は物語が好きだ。

 とりわけ、日常を丁寧に描いた上でその対比として非日常を描く物語作品というものは、どうしようもなく僕の心を鷲掴みにしてしまう。

 最初にして最高の好例が、「ドラえもん」だ。

 僕は小さい頃、「ドラえもん」が大好きだった。僕の実家の近所には小さな児童館があって、そこには「ドラえもん」の漫画が全45巻置いてあった。大長編の漫画も置いてあった。僕は小学生にもならない頃、まだ字がまともに読めない頃から「ドラえもん」が好きで、その児童館で「ドラえもん」の漫画を母に読み聞かせて貰っていた記憶がある。今になって思えば漫画を読み聞かせさせるとはスゴイことをしていたなあと思う。

 初めて見た映画は「ドラえもん のび太の宇宙漂流記」だったと思う。それはとても怖い体験だった。のび太達がひょんなことから遠い宇宙の彼方まで来てしまって、地球との距離が遠すぎてどこでもドアを使っても帰れないことが分かったシーンは、幼少の僕に形容し難い不安と絶望を与えた。

 それはすなわち、映画に没頭していたことに他ならない。それ以後僕はますます「ドラえもん」を好きになった。そしてあえて抽象化するならば、日常と非日常のハイブリッド物語の虜になったと言って良いだろう。

 「ドラえもん」作品は連載漫画においてのび太達のおバカな日常を描く。ドラえもんの存在は現実を生きる僕達にとって非日常だが、作品世界では日常だ。日常とは現実的である事ではなく、その名の通り日常的である事だ。作品世界で非現実を日常として描けば、それは日常描写になる。

 そして同作品は大長編すなわち劇場版において、とても分かり易く非日常を提示する。映画のドラ達は毎回、深海や地底や空や宇宙や過去や未来やファンタジー世界へと旅をして、そこで事件に遭遇する。そしてその描き方が非常に秀逸だと感じるのは、僕の感性が「ドラえもん」に育てられたからだろうか?

 「ドラえもん」の映画は日常→非日常→日常というとても分かり易いシンプルなサンドイッチ構造となっており、それが視聴者の感動を誘うのだ。

 僕の好きな作品「ドラえもん のび太と鉄人兵団」を例に取ろう。同作における最初のシーンは、空き地においてスネ夫がロボットのラジコンをのび太に自慢するシーンだ。これは連載漫画を知っている者からすれば、日常の代名詞だろう。金持ちのスネ夫は高級なおもちゃをいつも自慢する。そして煽り耐性(?)の無いのび太がムキになって出来もしないことを口にし、ドラえもんに助けを乞うまでがパターンだ。鉄人兵団においてもこの日常パターンが踏襲される。視聴者は、朝目覚めて顔を洗い歯を磨くのと同じくらい自然に、それらの冒頭シーンを見て「ドラえもん」の作品世界に没入する。そして物語を加速させるいくつかのキーが投げかけられ、ハラハラドキドキのストーリーが描かれる。そして同作のラストシーンは、全ての冒険が終わり、またいつも通りの学校でのび太が授業を受けているシーンだ。のび太がふと窓の外を見ると、先の冒険で知り合った可憐なロボットの少女・リルルの面影を見たような気がした……。このラストシーンは冒険の微かな残り香を感じる名シーンだと僕は思う。これを見て視聴者は冒険の終わりを改めて感じ、守ったものと失ったものとを心で噛み締め、日常の中に埋没していくだろう冒険の記憶を「けして忘れないぞ」と強く抱きしめたくなるのだ。

 世の中には幾千の物語があるけれども、僕は「ドラえもん のび太と鉄人兵団」が物語の全体的な構成としては最高レベルの域にあると感じている。

 要は日常→非日常→日常の流れるような展開である。

 ここであえて宣言しよう。日常を描かない物語に真の魅力は無いのだと。

 二つ目の例は「Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ」だ。

 同作は漫画原作で、それを元に現在4期のテレビアニメと1本の映画が制作されている。ここではアニメに焦点を当てて話そう。

 結論を言うと、プリヤが名作アニメとなったのは、アニメ第3期の豊富な日常描写のおかげだと、僕は思う。

 同作はアニメ一期の時点からとてもバランスよく綺麗に纏まっている秀作ではあった。しかしワンクール10話という尺の短さ故に、致し方ないとは言え日常描写が不足していた感がある。全く無いわけではなかったが、それはあくまで非日常たる本筋のストーリーを際立たせるためという目的が見え透いた日常描写――すなわち非日常のための日常だった。「非日常のための日常」も日常描写には違いないが、やはり私が愛するのは「日常のための日常」であり、それと対比される非日常なのである。

 「日常のための日常」的な日常描写とは日常描写だけでストーリーが完結しているということだ。その話だけ切り取って見ても面白いということだ。先の例の「ドラえもん」は言わずもがな、プリヤにおいて私が最も好きなのはアニメ3期第3話「命短し腐れよ乙女」だ。この回が特別なのは、メインキャラクターがイリヤでもクロでも美遊でもなく美々であることだ。真の日常において、主人公はいつも主人公的ポジションであるとは限らない。サブキャラクターに焦点が当てられるのは極めて日常的なストーリーであることの宣言であろう。実際この回は原作漫画では本編ではない番外編としてオマケのような扱いで描かれていて、それをアニメの一話分に膨らませて放送したアニメス制作タッフを僕は賞賛したい。この回はストーリー自体も非常に中身のある内容だった。BL趣味にのめり込む美々が自身の趣味に対する後暗い気持ちを克服して自己肯定を果たす小さなサクセスストーリーは、視聴者の心に豊かな潤いを与える。一話完全完結の最高の日常物語だ。

 「プリズマイリヤ」は戦闘美少女の物語であり、少女が流血死闘する姿はそれだけで見応えがあるものの、しかしそれでも日常の描写があるのと無いのとでは物語の深みが大きく違うことが分かる。アニメ第4期ではイリヤ達は平行世界に飛ばされてますます非日常的物語へと突き進むが、この展開は第3期の日常パート無くしてはけして充実したものに成りえなかっただろう。

 ここで「日常的である」とはどういうことか。僕なりの考えを述べておこう。

 日常的とは何かを考えるためには、まず非日常的とは何かを考えるのが分かり易い。僕は考える。「非日常的である」とは、すなわち「主人公達が何か価値あるものを失う」物語だと。従って、「日常的である」とは「主人公達が結局何も失わない」物語を指すと、僕は考える。

 「ドラえもん」のよくある日常回において、ラストの落ちはしばしば、ドラの道具が壊れる→のび太ジャイアンに殴られる というものだ。だが道具は元々ドラえもんに借りたものであるし、コメディ漫画のお約束として殴られた傷は次回には(或いは次のページには!)癒える。のび太は何も失わない。

 一方、大長編においては、のび太達は異世界で新たな仲間と出会い、友情を育む。そして大抵の場合、物語のラストでのび太達が日常世界に帰る際に、育まれた友情は長大な距離と時間に阻まれてしまい、彼らはほろ苦い別れを経験する。この別れは「価値あるものを失う」ストーリーと言える。もちろん全てを失ったわけではなく、友情の記憶はのび太達の精神をを一回り成長させただろう。だが物語の中盤にあった目に見える・手で触れられる友情は確かに失われたのだ。

 僕が「失う」ことに注目したのには二つの理由がある。

 まず第一に、我々生命は「失う」ことを恐れてそれを未然に防ぎながら生きているという事実だ。

 万物が流転する自然界において我々生命だけが個としてその変化に抗い恒常性を求める。例えば僕達人間は骨と皮膚によって体の形を一定に保ち、各種臓器の働きによって体温や血中酸素濃度などを一定に保とうとする。毎日同じ家の同じ布団で眠り、シャワーを浴びて清潔さを保とうとする。つまり「変化しない」ことが我々の普通であり心の安寧なのだ。変化することは異常であり、非日常の可能性を孕む。

 第二に、変化する場合でも「失う」ことは特別であるという事実だ。

 変化には三種類あると僕は思う。「(失うことなく)得る」「等価交換」「(等価交換でなく)失う」だ。

 「得る」の例は、楽器の演奏等が当てはまるだろう。楽器を練習して演奏が上手になる物語は、明らかに「得て」いる。楽器の練習は、(もちろん程度によるが)練習自体もけっこう楽しいのだ。何も失わずに得ているのだ。

 「等価交換」は、買い物がよい例だ。お金を払って商品を得るという行為は当事者が納得した上での明らかな等価交換だ。

 「失う」例は様々あるが、例えば「塞翁が馬」という故事成語がある。その元になった話の一部に「男が落馬して足を負傷したが、そのおかげで戦争に行かずに済んだ」というストーリーがある。このストーリーは得たものもあるが失ったものもある。よって「失う」物語だ。男は予め未来の幸と不幸を納得した上で落馬した訳では無いし、足の負傷と戦争の免除は等価な交換ではない。例えばの話だが、男がサッカー選手だったなら彼にとっての足の負傷はあまりにも痛い損失だ。戦争に行く方がましだったかもしれない。

 さて、こうして三種類ともに例を挙げてみると、「得る」物語と「等価交換」する物語は率直に「日常的」な印象を受ける。また「失う」物語はその粗筋を想像するだけで「非日常的」な気分になる。

 所謂よくできたプロットというものは非日常的な「失う」物語なのだ。だから世間一般にウケる物語は基本的に非日常物語だ。日常物語の多くはコメディーだ。また、日本のサブカルチャーにおける漫画タイムきらら等の日常系物語は特異点だろう。そして僕が好きなのは、それらが同一タイトル内で対比構造を取っている「日常/非日常ハイブリッド物語」なのだ。

用語定義

 物語の二種区分: 「変化しない」・「変化する」物語

 「変化する」物語の三種区分: 「得る」・「等価交換」・「失う」物語

 「非日常」: 主人公たちが価値あるものを「失う」物語

 「日常」: 「非日常」の排反。主人公たちが価値あるものを失わない物語

 「日常のための日常」: その「日常」だけで物語が完結していて、受け手側を満足させられる「日常」描写のこと

 「日常/非日常ハイブリッド物語」: 同一タイトル作品内で「日常のための日常」と「非日常」が両方存在し、対比されている物語のこと

 最後にとっておきの例を出そう。

 「マブラヴ」だ。

 この作品は先に述べた「日常のための日常」・「日常/非日常ハイブリッド物語」の極地と言って良い作品だと思う。同作はアドベンチャー形式のアダルトPCゲームであり、その特徴としては、ゲーム内容が完全に二つのパートに別れていてそれぞれで完結しており、第一のパートでは現代日常的なラブストーリーが、第二のパートでは主人公が平行世界に飛ばされて軍事訓練を受けるトンデモ非日常ストーリーが描かれている点だ。

 注目すべきはそのボリュームだ。第一のパート・エクストラ編だけでそこらのエロゲ1本分に引けを取らないテキスト量があり、内容も、よくある王道モノではあるものの各ヒロイン毎にしっかりとシナリオが練られていて読み応えがある。

 また、第二のパート・アンリミテッド編では地球外生命体が地球を侵略している並行世界が舞台となり、エクストラ編の現代日常世界に登場したヒロイン達が同名同容姿同年齢同性格で現れる。変化しているのは世界の状況とそれによる彼女達の立場とイデオロギーだ。この設定が、「世界が人間に与える影響」「人間の意思が世界を変える力」といったようなワクワクする抽象理念をとても分かり易くプレイヤーに伝える。日常と非日常が精密な実験器具によってコンマ1ミリの精度で比較されているような印象だ。さらに言えば、アンリミテッド編の続編となる「マブラヴ オルタネイティヴ」では並行世界で挫折した主人公がある方法で元の現代日常世界に帰ろうとするが、そうは問屋が卸してくれず、彼のその行動が新たな困難を招く。プレイヤーは異世界と元世界の間で絶望的な孤独を味わう主人公に我を忘れて感情移入し、テキストを読み進めるのだ。このような常世界と非日常世界をスレスレまで近づけてそこに越えられないガラスの壁があることを受け手に示すことも、「日常/非日常ハイブリッド物語」において絶妙なアクセントとなる

 さて、ここで自発的に二つの問いを立てて、それに自問自答しよう。

 第一の問い:日常描写にボリュームは必要か?

 第二の問い:ラブストーリーは日常的でありえるか?

 まず第一の問いについて。

 僕の結論を言おう。ボリュームはあるべきだ。

 「マブラヴ」のエクストラ編はボリュームの点で秀逸(?)だ。はっきり言って長い。興味の無いヒロインを攻略するのはけっこうしんどい。実際僕も鼻くそをほじりながら欠伸を噛み殺しながらテキストを読み進めた。しんどいのが良い訳では無い。だがしんどくなるほどのボリュームは、やはり価値がある。何故なら現実における日常とは本来欠伸を噛み殺すような物語だからだ。フィクションにおいて日常を面白くする要素はひとえにユーモアだろう。ギャグだろう。しかしキレッキレのギャグが散りばめられているだけは、それはそれで嘘臭い日常になってしまう。「面白い日常」は難しいのだ。だが難しいからと言って、日常描写を面白くする努力を避けてボリュームを削るということは、作品全体のパワーを下げてしまうようでもったいなく感じる。ボリュームのある日常描写に挑戦している作品はそれだけで応援したくなるということだ。

 第二の問いについて。

 僕の結論は「ラブストーリーは基本的に非日常だが、それとはまた別の非日常と対比される場合、その相対的な関係によっては日常と言えなくもない」だ。

 「マブラヴ」のエクストラ編は同作における日常パートを担うが、その中身は恋愛を主題としている。では恋愛は「得る」物語か?「等価交換」の物語か?「失う」物語か? 僕は「失う」物語だと思う。恋愛はその結末において、それまでの日常を失うからだ。例えば幼馴染みの関係が男女の関係になるのは等価交換ではない。また、もしも三角関係の物語ならば、誰か1人が失恋するし、友情が壊れるかもしれない。恋愛の本質は残酷であり、意外にも当事者から色々なものを失わせるのだ。

 それでは「マブラヴ」は「日常/非日常ハイブリッド物語」ではないのか?というと、そう簡単でもない。何故なら「マブラヴ」の非日常パートたるアンリミテッド編は、地球と人類が滅亡の危機に瀕しており、戦場においては主人公やヒロイン達が死の危機に直面するからだ。少々乱暴な理屈かもしれないが、これは恋愛とは非日常のレベルが違う。特に、死というものは永遠絶対の非日常なのだ。死んだものは生き返らないからだ。(反例として「ドラゴンボール」においては死者が簡単に生き返るため、死が半日常化している。このような例外はある) その「死」という絶対的非日常と比較すれば、恋愛には時間経過の余地がある。現在学生の主人公・ヒロイン達の青春真っ盛りの恋愛も、10年後には笑って思い出話にできるようになるかもしれない。そうなれば、恋愛物語は全体として輝かしい青春の思い出へと昇華され、良き成長と思い出を「得た」物語になると言えなくもない。青春的な非日常物語は、現在の当事者からすれば壮絶な非日常であっても、時間経過がそれを日常化してくれる可能性がある。死と対比される場合、それはより明らかだ。

 死が絡む物語は多い。中でも死が絡む青春物語は、死そのもののインパクトもさる事ながら、死の概念によって青春が日常化されるという不思議な感覚を受け手に与える作用もあると感じる。

 つまり日常と非日常は相対的な関係なのだ。

 だからこそ、(話は最初の「ドラえもん」の例に戻るが)「日常→非日常→日常」のサンドイッチ構造が重要なのだ。「日常→非日常」だけでは、それらの相対的な関係が描かれるだけで、どこまでが日常か、どこからが非日常か明確にならない。「日常→非日常」ときて最後に「→日常」に帰結することで、受け手は「なるほどここまでが日常だったんだな」と明確に感じ、同時に非日常を明確に想起し、切ない気持ちになるのだ。

 「プリズマイリヤ」はまだ連載中だ。同作が最後に迎える「→日常」はどのようなものになるのか? 僕は期待している。

あとがき(弁明)

 偉そうにだである調で書きましたが、ぼーっと考えたことを書いただけです。用語定義は僕の個人的な考えです。