蟲が生きる

生きることは戦うことでしょう?

「私は○○するために生まれてきた」というエモ・センテンスについて

「私は○○するために生まれてきた」

 という言葉を目にするたび、耳にするたびにいつも、私の精神はさながら脊髄反射的に興奮し、否応なしに感涙の予兆を覚え、そしてその数瞬後には些かの劣等感をも自身のうちに見つけなければならなくなる。

 まったく、このフレーズ以上に人間的で、非論理的で、素晴らしく、羨望の的となりえる言葉があるだろうか?

 あなたは自分が生まれた意味を知りたくはないか? 私は自分が生まれた意味を知りたい。無秩序で無価値な世界で、自分で自分の生に価値を肯定したい。しかし今のところ、それは実現できる見通しが立たない。だから私は「私は○○するために生まれてきた」というセンテンスに強く心を打たれるのだと思う。

 

 急にこんなことを書くのは、最近立て続けに二度、先のような言葉に逢い見えたからだ。以下にその具体的な内容と、私の所感をメモしておく。

 

●一度め

 近頃、私はW.A.モーツァルトピアノソナタに傾倒しており、先日、とうとう全集のCDを購入した。イングリット・ヘブラーという女性ピアニスト(2019年現在92歳で存命)のそれに同梱されていた小冊子の一節、ヘブラーへのインタビューの概要の中に、その言葉が在った。

 

以下引用<

モーツァルトひき」と呼ばれることを、女史は、一種あかるく、さわやかな自覚とともに諾っておられた。世にはしばしば、レッテルを貼られることを嫌い、「○○ひきと言われるけれど、私はじっさいには幅広くなんでもひける人間なのですよ」と、つとめて主張するタイプの演奏家もいる。ヘブラーの場合はそれがなく、「11歳のとき、オーケストラと初めてひいたのもモーツァルトザルツブルクのモーツァルテウムで、少女の私はショルツ教授の手からモーツァルトのフレージングを教わりました。私はやはり、モーツァルトをひくために生まれてきたのだと思います」といったことを、微笑とともに淡々と語られた。

>以上 著:濱田滋郎 「モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集」(ヘブラー)(ASIN:B0000C9VO5)同梱冊子より抜粋

 

 かっけええええええええええええええええええ!!

 かっこよすぎて鳥肌が立った。

 私も言ってみたい、「私はやはり、モーツァルトをひくために生まれてきたのだと思います」って。

 彼女がこの言葉を残したのはおそらく65歳前後だ。少なくとも人生の折り返し地点はとっくに過ぎた年齢でのこの言葉は、重みが凄まじい。その言葉に違わず、ヘブラーモーツァルトピアノソナタは世界的に高い評価を受けているし、私自身も彼女の演奏が大変気に入っている。

 

●二度め

 2019年冬アニメも三分の一が過ぎて、おおよその評価が固まりつつある今日この頃、私が今季楽しみに視聴しているアニメ「ガーリー・エアフォース」の第四話にその言葉が在った。とはいえ、これに関しては本編の重要なネタバレになるので、引用はしない。視聴していない人はとりあえず視聴して欲しい。残念なラノベアニメにありがちな「原作一巻分を一話で終わらせる」みたいなことは無く、主人公とヒロインの関係が強まっていく過程がそこそこ丁寧に描かれているので、とても見やすい作りとなっている。ストーリーは王道を往くSFミリタリーバトル×ロボットの少女といった様相。

 ……って、あれ? 完全にただの「アニメをお薦めするだけのブログ」になってしまった。

 まあ四話Bパートを視聴した人はわかるだろう。グリペンの力強い瞳と、その言葉。それは先のヘブラー氏のような円熟した意思ではない。視野狭窄的であると批判される可能性さえある、諸刃の剣のような直感だ。

 だが操縦機構の体に人間の心を宿した彼女にしか分からない閉塞的な孤独感が、その言葉とともに視聴者の心と一体になって弾け飛んだ感覚は、紛れもない真実なのである。グリペンちゃんかっこいいよ!グリペンちゃん!

 

 

 あえて対抗して言っておこう。

 私はイングリット・ヘブラーモーツァルトを聴くために、ガーリー・エアフォースのアニメを見るために、この世に生まれてきたのだと。