蟲が生きる

生きることは戦うことでしょう?

交わらない人生、仄かな香煙の残滓。

 家賃・共益費計二万五千円の安アパートに、六畳一間を借りて暮らしている。 

 年の瀬の頃から、その居室を出たところの共有スペースに、妙な異臭がするようになった。

 共有スペースというのは、もう少し質の良いアパートであれば廊下という形状に取って変わられるものであるが、この安アパートでは各階の階段を登った先の小空間に四つか五つの部屋の扉が顔を見合わせるように集合する体を成しているため、廊下とは形容し難く、共有スペースと言い表した次第だ。

 さて、その異臭というのがまた何とも形容し難く、吐瀉物のような、或いは放置された生ゴミのような、しかしそれらとはどこか一線を画すような、得も言われぬ悪臭であった。

 何はともあれ、玄関を出るたびに不快な気分になることは確かであり、これはきっと隣人の誰かの過怠に違いないと思えば、苛立たしい気持ちにもなったものだ。

 しかし、その異臭が一週間、二週間、ないし正月を跨いで一ヶ月以上も継続したので、流石に苛立ちよりも不可解な気持ちが勝ってきて、漸く、いずれかの隣室で人間が死んでいるのではないかとの疑念が生じた。

 所謂「孤独死」だ。

 だがそんな疑念が生じても、自分から何か行動を起こそうなぞという気にはちっともなれなかった。管理会社に電話するのか? 市役所に電話をするのか? そんな煩わしいことをしようと思うほど、共有スペースの異臭は耐えられなくはなかったから。

 日々、朝から晩まで仕事に時間を奪われ、休日も掃除や洗濯などの雑事を片さなければならない。そんな中で扉を二枚を隔てた見知らぬ人間に興味を持つことは難しかった。思えば私たち人間はいつから、これほど近くに存在する同類の姿も声も知らぬままに生活をするようになったのだろう?

 そして来る日も来る日も玄関先の異臭を嗅ぐうちに、その臭いにも慣れてきて、もはやそれら全てが日常に埋没しようとしていた。

 そんなある日、休日の午後、ふと気づくと共有スペースは清潔な空気に満たされていた。まるで新しい春の訪れを予感させるかのように清々しかった。

 そして仄かな線香の香りが鼻腔を刺激したとき、私はかつて抱いた疑念を思い出した。

 私は六畳一間の一室で独り静かに燃え尽きる命を想った。

 それは後の自分自身を想うことと、等しいことであった。