蟲が生きる

生きることは戦うことでしょう?

夕焼け空綺麗だと思う心をどうか殺さないで……

 二〇一九年八月、私はいまだに退職すべきか否か迷っていた。そのこと自体にはもう慣れっこになっていたので、気分が滅入るほどでは無かったが、漠然とした将来への不安を拭いきれない己の弱さと、ことあるごとに他人の感情に流されてしまう己の不確かさに、辟易せずにはいられなかった。
 その日はちょうどお盆の時期で、私の勤める会社にあっても営業部や生産管理部の人間は長期休暇をとっていた。工場勤めの私はいつも通りの出勤であったが、仕事はよく空いていて、実に久しぶりに定時の十八時半に退社することができた。
 私は自転車通勤だった。そもそも自転車で通えないような遠距離の職場に勤めることが、私には考えられない。
 自転車に跨り両耳にイヤーホンをつけて、世界に音楽を流した。

 モーツァルトピアノソナタ・ケッヘル332第一楽章。クラシック音楽を聴いて帰るのも久しぶりだった。普段、残業をして疲れきっている日は、萌え電波ソングを爆音で聴取して脳の疲労感覚を麻痺させなければ、とても家まで帰りつけないからである。
 ゆっくりとペダルを踏み込み、通い飽きた通勤路を遅く走った。

 道沿いの小川の澄んだ水も、その中にゆらめく青々とした水草の群生も、もはや私の心を捉えなかった。私の心は疲れていた。第一楽章の脈打つような三拍子の律動が、衰弱した心に血を送り込む刹那の心臓のようだった。
 大通りを渡る横断歩道の赤信号で止まったとき、私は空を見上げた。
 それを、その空を、端的に文字にしてしまうなら、「美しい」という言葉で全く必要十分だった。
 そう、それは美しかった。私がこの文章を書く動機はまさに、その美しさを少しでも形あるものとして留めておきたいという自然への抵抗に他ならない。
 夕焼けだった。
 太陽が滅びる間際、大気の淡い水色と、白雲を縁取る淡い朱色が、究極的に美術的に混ざり合って、一瞬の、一度きりの、二度とない時間を表していた。
 そのすべてを静かに包むように、夜の暗黒のベールが、まだ薄く、しかし確実に、東の空から溶け出していた。それは甘美な光と闇の世界を予感させた。
 彩りを失ってベタ塗りになった山の輪郭が、むしろより強く、生い茂る夏の木々を私に印象づけた。
 湧き出るかのような野鳥の群れが、その山や木々を喜び尊ぶように、乱舞していた。忙しく翼をはためかせながら、美しい空を美しく飛び回った。それはとても賑やかなはずなのに、何故だかこの上ない哀愁を湛えていた。
 嗚呼、こんなに美しい風景を、どれほど久しぶりに見たことだろう!
 そうして感じ入るうちにも夕焼けは西へ西へと小さく退いていくようだった。
 よく見ると、一筋の長い飛行機雲が紺碧の空にあった。それは東から高く伸び上がって、私の頭上を通り、西に薄く霞んでいた。西の空はいよいよ紅に染まり、近所の学校の校舎ごしに、私を遠く赤く照らした。
 私はやっぱり会社を辞めたいと思った。
 仕事は、きっと偉大なことだろう。けれど、それよりも、私は毎日こんな景色を見たいと思った。あと一万日生きれるのだとしたら、一万回夕焼けを見たいと思った。雨の日があることなんて、その時は忘れていた。
 いま私を問い詰めているのは、有限の時間だった。いま、この綺麗な夕焼けを見た日は、もう二度とないということだった。
 夜が音もなく訪れて、また私の耳にモーツァルトの音楽が聞こえてきた。家までもうすぐだった。