蟲が生きる

生きることは戦うことでしょう?

コーラを撒いた日

 私が小学校の五年生だった時、私はある一人の、今となってはとても印象的な同級生の男の子と、よく遊んだものだった。

 彼は名を茅山といって、なるべく伝わり易く表現するならば、性根の腐った悪ガキだった。少なくとも当時の私にとって彼はそうだった。

 私と茅山の通った小学校は、都市の郊外に位置する治安の良いベッドタウンの、マンションや戸建住宅が混在してひしめく丘の上にあった。えてしてそういった土地には身分の良い、一見して模範的な、豊かで常識的で整った生活をする家族が多く住むものだった。

 私の家族も、全くその例に漏れる所が無かった。もちろん、そこで実際に濃密な少年の時間を過ごした私自身からすれば、私の家族は少々風変わりな一面や、酷く険悪な一面などの特徴があった気がしないでもない。しかし、それは例えば両親の過度な教養主義的な思想とか、父の軽度の酒乱や家族内の不和とかであって、他愛のないとは言わずとも、取り立てて物語るほどの特殊性は認められないものばかりだった。今あえて分析するならば、私の両親は人より少しだけ人付き合いが不器用で、整った家族生活を作るために人より少しだけ余裕が無かったのかもしれない。それでも私と四つ上の姉は両親によく愛され、よく教育され、経済的不安や社会的悪からよく守られていた。

 それゆえに少年の私は、さながら手入れの行き届いた温室庭園の中だけで植物の豊かさや穏やかさや美しさをすべて知り尽くしたつもりになるように愚かに、人間のそういうもののすべてを知り尽くしたつもりになっていた。

 一方で茅山は例外だった。

 彼の家は校区の南端にある古い小さなアパートの最上階の二階だった。そこには私の住んでいたマンションのようなガラス扉のエントランスは無く、駐車場は無く、各部屋には「ブー」と音が鳴るだけの通話機能のない押釦があった。彼は彼の家に人を寄せたがらなかったので、私が彼の家を訪ねたのは一度だけで、その時も室内には上がらなかったが、その部屋のウッと呼吸を止めたくなるような悪臭は印象的だった。今にして思えば、それは強い煙草のヤニの臭いだったと思う。私は彼の一部しか知らなかったが、彼の家族が経済的に豊かでなく、その生活が乱れていたことは少年の私にも十分に知れた。

 私と茅山がよく行動を共にするようになったのに、特別これといった理由は無かった。ただ、私は生来内向的で人見知りな性格だったために、大勢のクラスメイトと遊ぶよりも放課後に彼と二人でフラフラと町を歩き回るのが楽しかったし、茅山の方も、十歳にして既に集団行動を取るのには性格にやや難のある子供だったため、互いの人間的な需要と供給が重なったのかもしれない。

 彼は私にとって悪の師匠だった。彼の教えてくれた遊びはどれも少年の私にとってあまりにも刺激的で背徳的で、そして魅惑的だった。私たちの放課後はまずピンポンダッシュから始まったものだ。静かな住宅街の一角で私が恐る恐る押す知らない家の呼び鈴がレーススタートの発砲音だ。二人して全力で走り出すのだった。すると茅山は決まって、走りながら駆け抜ける四、五軒の家の呼び鈴を連続で押していった。ピーンポーン!ピーンポーン!ブーーー!ピーンポーン!

 「やばいやばいやばいやばい、それはやばいっ」

 言いながら笑った。私も気が大きくなって、どさくさにもう一軒押したりした。そして心臓がはち切れるぐらいに走った。アスファルトの道路を足が痛いくらい蹴りつけた。こんな悪戯が父や母や学校の先生にばれたらどうなるだろうか? きっと本気で怒られる。でもそれが凄く楽しかった。その後私たちは私の家の玄関の外のガス・水道メーターが置いてある狭い物置のようなスペースにランドセルを押し込んで、何か面白いものを探して町をふらつくのだった。ゴミ置き場を漁ってエロ本を探したり、溜池の柵の中とかマンションの屋根の上とかの立ち入り禁止の場所にとにかく立ち入ったりするのは、私の罪悪感は薄かった。だが悪の道は険しく、彼がゲームセンターで他人のコインを盗んだり、駄菓子屋で万引きしたり、学校近くの遊歩道に開いている露店の売上が入った籠から小銭をちょろまかすのは、私は怖くてとても真似できなかったので、見張り役に徹した。私は彼に勧められて初めて煙草を吸った。意を決して肺まで大きく煙を吸い込むと、胸がカッと焼け付くような気がした。匂いが付いて親にばれないかと気が気でなかったので、強いキシリトールのガムを四粒一気に噛んだ。

「俺ん家は親が吸いまくってるから、元々煙吸いまくってんねん。自分で吸ったってなんも変わらんわ」

 茅山は慣れた様子で喫煙しながら、わりと正論のようなことを言っていた。私は彼に付き合うことで、大人になれた気分だった。親にも先生にも絶対に言えない秘密が、自らが逞しく自立して生きている証のように思えた。公園でサッカーをしたり家でゲームをしている他のクラスメイト達より広く深い闇の世界を知っているという優越感に浸った。罪悪感や恐怖感は強く私の精神を攻撃したが、その優越感が私を夢中にさせた。

 私と悪い遊びをするときの彼はよく笑ったが、学校での彼は無口で、基本的に誰とも関わろうとせず、遅刻や欠席も多かった。また彼は自分のプライドを傷つけられるとすぐに相手を蹴りつける癖があった。特にクラスの中心で教室を賑やかすような者を忌み嫌っていたようで、少しバカにされたりすると、何かとすぐ噛み付いた。しかし彼は身長が低く体格にも恵まれないため、取っ組み合いの喧嘩になるといつも負けるのだった。教室の埃っぽい床に押さえつけられて

「あやまれ。あやまったら許したる」

 と言われている茅山を見るのは可哀想だったが、毎度彼が先に暴力をふるい出すので、正義が無いのだった。そんな彼に味方すれば私まで同じ目に遭うので、私は静観していた。ベッドタウンの小学校の児童の多くは、豊かで常識的で整った生活をする家族の子供たちだった。彼らは貧しく非常識で乱れた子供である茅山を常識的な正義の元に嫌った。ただし正義の元の感情も、やがて差別的な思想を生むようだった。

「毎日同じ服着ててきたない」

「髪の毛にフケついててキモい」

 子供は、自分たちの生活も肉体も精神も、その全てが保護者の労働と愛によって提供されていることに疑問を抱かないのだから、仕方のないことだった。先生にも問題児扱いされ(事実問題児だったわけだが)、彼は孤立していた。そんな彼と一緒に遊んでやる〈差別心のない優しい自分〉という意識もまた、私のメサイア・コンプレックスを心地よく慰めて、幼い優越感の拠り所となっていた。彼の悪の所業に対して、私が「すごい、真似できない」と言ってやることで、彼の自尊心が満たされるのだろうと、自分自身の心を一段高い所に置いて分析家の振る舞いをした。

 五年生の終わりに、茅山は引っ越していった。

 結局彼と私は一年だけの付き合いだった。引っ越す前に、彼は茅山から藤井に苗字が変わっていた。私は初めて身近なところで離婚というものを目撃した。彼は春休みの引っ越す数日前に一万円札を持って私の家を訪ねてきた。

「引越し祝いや」

 親の財布からちょろまかしたそうだ。私たちはコンビニで菓子や揚げ物を五千円分買って腹いっぱい食べた。公営団地の裏手で煙草を吸った。静謐な住宅街をピンポンダッシュした。夕方になった。

「おっしゃ俺そろそろ帰るわ」

 茅山が言った。私は最後にせめて一言真面目に別れの挨拶をしたかった。が、咄嗟に何を言うべきか分からなかった。そこで彼の家の近くまでついて行くことにした。無言の帰路だった。私たちは二人とも話すのが下手だったんだなと、その時になってようやく気づいた。

「なあ、これ飲んでみてや」

 ふと彼が小さな公園の前の自動販売機の前で足を止めた。彼が指しているのは、何故か丁寧にブロック塀の上に置かれている開封されたコーラのペットボトルだった。中身が二割ほど残っていた。

「飲んだら千円あげるわ」

「いや、さすがに嫌やわ」

「ち、おもんないな~」

 また歩き出した。夕日が眩しかった。そして私は訥々と言葉を紡いだ。

「でも……あれやな、こうして茅山と喋るんももう最後なんやな……」

「寂しい?」

「そうやなあ」

「俺はべつに寂しないけどな」

「――っ……」

「おまえと遊ぶんももう飽きてるしな」

 私は……言葉に詰まった。茅山はこういう奴だと分かっていたつもりだった。悪いことばかりする性根の腐った奴で、友情とか惜別などという言葉の似合わない最低の奴だと。私とて自分が楽しむために彼に付き合っていただけで、彼を信頼の置ける友人だとは思っていなかったはずだった。しかし――、しかしそれでも私は最後の最後に彼に何か少しの人間的な言葉を期待していたのだった。十一歳の少年が同い年の少年に自然と期待する当たり前のものを、彼に期待していたのだった。私はひどく悲しくなった。

「おまえも結局カネモ(カネモ=金持ちのこと)やからな、中途半端やねん、いろいろ全部」

 私は、何も言い返せなかった。もし私が真実彼を友達と思っていたなら、泣いて叫んだかもしれない。だがきっと私はどこか彼を見下していたのだろう。一緒に悪戯をして一緒に笑っていた時も、心の深奥で、彼を動物園の動物を見るような目で見ていたのかもしれない。彼はそのまま去っていった。残された私の悲しみらしき感情は、速やかに彼への憎しみと自身への苛立ちとに変化した。私はブロック塀の上のコーラを手に取ると、夕焼けを照り返す赤黒い道路に思いっきりぶち撒いて放り捨てた。