蟲が生きる

生きることは戦うことでしょう?

自由と孤独、波に融けて…

 海を見に来た。
 岡山県倉敷市児島の湾岸から望む瀬戸内海は一応の水平線は確認できるものの、その奥には必ず四国山地の一旦が薄く白く霞んで見えていた。とはいえ、私にとってその海は充分に広く、心を解放的にしてくれるものだった。
 波を見るととても良い気分になる。落ち着くけれど、落ち着き過ぎて気分が沈むことも無い。ずっと見ていられる。
 波には、海面を盛り上げる大きく偉大な波と、その表面を皺のように彫刻する小さな無数の波とがあるように感ぜられた。その二者が自然の神の力で美しく融合して、私を魅了した。
 また、私のすぐ脇にある大きな河口から水流が放射状に海に放たれるのが、明らかに見てとれた。その指向性を持った水流が、遠くで、いつの間にか海と混ざるのも、私を楽しくさせた。
 次に私は、転落防止のためのコンクリート壁から身を乗り出して、下を覗き見た。
 岸壁の真下に三角錐の辺を抉ったような形の護岸ブロックがいくつもあって、その一つ分ほど海面の上に出ていた。隙間に浮き草やペットボトルのゴミが浮いていた。
 よく見ると、護岸ブロックや岸壁の表面に無数のフナムシがいた。スガイのような巻貝もいたが、フナムシの数が圧倒的だった。大きいのや小さいのがいた。彼らの半分くらいはじっと静止していて、半分くらいはゆっくりと動いていた。そして時たま、目に留まらぬ速さで俊敏に動いた。
 彼らの様子は無意味で、無目的で、虚しい印象を私に与えた。彼らは一生このゴミの浮かぶ海岸でザラザラしたコンクリートにへばりつき、時おり波に呑まれて、そうして死んでいくのだろうと思い、可哀想にさえ思った。
 でも海の中は気持ち良さそうで、少し楽しそうだとも思った。
 けれど、やっぱりフナムシより人間の方が良いと思った。
 このような思考は人の驕りなのだろうか? そういう難しいことは私にはよく分からなかったが、それでも私は人間は素晴らしいと思ったのだった。
 なぜなら私は人間だから。人間だから人間の素晴らしさを特別に感じることができる。人間の素晴らしさは自由さだと思う。自由だから私はこうして海を見に来れた。それは絶対的に素晴らしかった。そして私はフナムシの素晴らしさは感じられない。それだけのことだった。
 やにわに強い風が吹いた。
 枯れ葉が海に舞い散った。水面を削り取るような濃い風の影が海を疾走した。見る間に雲が空を覆って、雨が降ってきた。
 私の自由意志は濡れないことを求めて、フナムシ達に別れを告げて屋根を探し始めた。