蟲が生きる

生きることは戦うことでしょう?

「リズと青い鳥」について

 先日、三回目を見てきました。

 ただただ凄いなあのいうのが感想です。

 ネット上で色々な方の考察ブログなども読みました。一つ一つのシーンについて解釈が提示されていて、ああなるほどなあと思いました。

 僕はそんなに頭の回る方ではないので、論理立てて考察を展開するようなことは、難しいのですが、それでもやはり自分の思ったことをか書き留めておこうと思い、久しぶりにブログを開きました。

「By making it a blog, can I keep the memory? I just came to love it now.」

というわけです。

※他の方のブログで表記による書き分けをしていたので、真似させてもらいます↓↓↓

 ・「リズ鳥」……映画作品名

 ・「リズと青い鳥」……作品内の絵本名

 ・<リズと青い鳥>……作品内の楽曲名

●物語の根幹にある価値観=「青い鳥はリズの元から飛び立たなければならない」……何故か?

 思うことは色々あるが、まず第一に、この映画の一番奥底に流れるものって何なんだろうと考えた時、「青い鳥はリズの元から飛び立たなければならない」という価値観かなと思う。

 何故だろうか?何故青い鳥は飛び立つのか?飛び立たなければならないのか?

 そのヒントは「リズと青い鳥」のお話の中にあると思う。「リズと青い鳥」においてリズと少女(青い鳥)は言わば共依存の関係だ。そこには2人だけの世界があり、2人だけの毎日が繰り返され、2人だけの幸せが満ちていたことは、映画を見ればよく分かる。そして、「リズと青い鳥」というお話は、それを否定する。そして更に「リズ鳥」という映画も、少し違う形でそれを否定する。

 その理由は、僕なりの言葉でいえば、「我々は一箇所に留まり続けることの出来ない、時の渡り鳥だから」だ。

 「リズと青い鳥」において少女の「冬になるとリズはどこへ行くの?」との問いかけにリズは「どこにも行かないわ。ずっとここにいる」と答えるシーンは印象深い。このシーンは、リズが「留まり続ける概念」なのに対して少女=青い鳥は「留まらない概念」だということを端的に示している。

 そして、僕達人間という存在は、流れゆく時間の中を生きる以上、リズにはなり得ない。片時も留まることなく過ぎ去る時間の中を、羽ばたき続けなければならない、青い鳥なのだ。

 映画「リズ鳥」を見る度に「羽ばたくことを恐れないで」という作り手からのメッセージを感じる。

 原作者の武田氏も監督の山田氏も、若くして自分の夢を明確に描きそれに向けて絶えず努力を重ね、自分の力で世界を切り開いてきた人間だと見受けられる。これは京アニYouTubeにあげている上映舞台挨拶の動画などで確認できた。そんな彼女達の人間性が映画にも湧き出していると感じる。

 流れゆく一瞬の儚さが最も顕になるのが青春ドラマだろう。何もかもが急激に変わってしまう環境の中で、その人自身もまた前に進み続けなければならない。他者に依存する精神はその妨げとなる。依存の人間関係はやがて不安と恐怖に支配されてしまい、人を縛り付ける呪縛になる。これは、リズが少女が立ち去ってしまうことに怯える描写や、或いはみぞれが「希美はいつまた居なくなってしまうか分からない」というように怯える描写に、顕著に示されている。

 「人間は身近なものへの依存から脱却して、各々の人生という大空へ一人きりで羽ばたかなければいけない」……というのが「リズと青い鳥」に流れる価値観だと思う。

 一方、「リズ鳥」も同じく依存の関係を否定するのだが、少し違った結末というか新しい思想が加わっているのを感じる。

 それはすなわち、「人間は自分一人の羽で空に羽ばたかなければいけないけれど、けして孤独ではない」ということ。それに加えて「青い鳥はリズに会いたくなったらまた会いに来ればいい」という希美の言葉そのものだ。

 人は、一人だけれど、孤独ではない。

 こうして書くと、なんとも陳腐な綺麗事に見えるけれど……、でも大切なことって意外に陳腐なことだったりするのかもしれない。

 これに気づいたのは、原作者武田氏の言葉がきっかけだ。「私の創作の意欲の原点は、学生時代に友人が自分の本を読んでくれたことで、その子のためにずっと本を書き続けている」といった内容のことを仰っていた。それを聞いて、ああそういうことか、と思った。武田氏の発言はまさしくみぞれの体験だと思ったからだ。「みぞれのオーボエが好き」という希美の言葉は一生みぞれの翼に宿る力になるだろうと信じたい。

 さて、映画を見た人の中にはやはりこの価値観=「青い鳥はリズの元から飛び立たなければならない」 に納得出来ない人もいるだろう。2人だけの世界でいいじゃないかと。全くもって、それも一つの考え方だ。僕はそれに反論する材料を持ち合わせない。ただ僕のことを言えば、僕は「リズと青い鳥」の価値観を持っていた。そしてだからこそ「リズ鳥」の新しい訴えに心打たれた。それはとても貴重な体験であり、喜びの体験だった。

https://www.youtube.com/watch?v=NMxgLPCQ3ak

●「みぞれを慕う梨々香と、それに応えたみぞれ」が自分のことのように嬉しかった

 僕自身全くもって他人との接し方というものがよく分からないので、その点で人付き合いの苦手なみぞれに感情移入した。特にみぞれと梨々香のパートに心打たれた。

 僕がみぞれだったら、どうだっただろう?皆さんはどうだろうか?梨々香を愛せただろうか?

 神の視点で見ている僕達視聴者は梨々香がとても信頼できる人であると確信できる。だが、みぞれの立場ではそうではない。自身が3年生になって入学してきた2つ下の後輩というのは、想像以上にどう接していいかわからない感がある。世代が違えばノリも違うし、二歳違えば良くも悪くも上下関係が明瞭になる。同じパートで唯一の先輩後輩だから当然慕う様子は見せてくれるが正直何を考えているか分からないし、自分自身が彼女に対して良い先輩として接せる自信がない。一つ下にはパートの後輩が居なかったので、そういった経験値が無いからだ。

 みぞれが大きく変化したのは、梨々香が自分の前でオーディションに落ちたと泣いたシーンかと思う。単純なことだ。真剣に涙を流して「先輩とコンクール出たかった」と言う梨々香に、みぞれは心打たれたのだと思う。人が変わるきっかけというのは、そういう単純だが真に迫ることなのだろう。みぞれと梨々香のオーボエ二重奏が夕暮れの校舎に響くシーンは感涙を誘う。その重なる音色を聴いて微笑む優子の姿は、彼女がみぞれを大切な友達だと思っていること、みぞれの勇気ある成長を嬉しく思うことを表している。

 みぞれにとって梨々香の存在は本当に大きかったと思う。

 それは「希美だけの世界」に吹き込んだ一陣の風。世界は一言の言葉で変わる。世界は少しの勇気で広がる。その実際の感覚がいかに偉大なものかは、筆舌に尽くしがたい。

●希美とみぞれに対するリズと青い鳥の関係

 希美とみぞれ、どちらがリズでどちらが青い鳥?……というのをキーワードにして「リズ鳥」のストーリーは進展していく。

 僕はこれについて、特に穿った見方はしない。最初、二人は二人自身を「希美=青い鳥 みぞれ=リズ」と読み取っていたが、やがて、その逆だと思うに至る。

 大好きのハグのシーンで、希美はたしかにリズだった。だが先にも述べたとおり、人は皆リズではいられない。人は青い鳥になって空を飛ばなければいけない。一人で飛ばなければいけない。

 簡潔に言うと、僕は希美とみぞれのどちらもが青い鳥であって欲しい。

 映画の終盤で2羽の鳥が空を舞うシーンがある。鳥たちが近づき、離れ、そしてまた近づきを繰り返して飛んでいくのが印象的だった。僕はこれを真実だと信じる。

 人は誰しもリズのままではいられない。孤独で単調で緩やかな毎日が繰り返されるだけの人生ではいられない。少女達を包む学校という名の鳥籠はやがて容赦なく消失して、なお目前には茫漠とした人生の空が広がる。

 「みぞれのオーボエが好き」という言葉でリズを演じきった希美は、しかしリズではない。時は流れすぎていく。リズは冬が来てもずっと同じ場所にいるけれど、現実の彼女たちはずっと同じ場所にはいられない。高校に通うのはあと一年。その先は……。

 そう、我々人間は本質的に青い鳥なのだ。他者にリズ的な愛を与えることはできても、リズでいることはできない。吹きすさぶ時の風に飛ばされないように、人生を飛ばなければならない。

 その点において、「リズ鳥」はみぞれに関しては一区切りの完結を見せているが、希美に関しては未完結な様相を呈している。これもまた2人の"ずれ"であるが、僕はそこに関して悲観的な印象は持たない。

 基本的に希美とみぞれは終始ずれ続けている。だがそれは悲しむべきことではなく、ずれていても彼女達は互いを尊敬する親友でありえるということが、最後の下校シーンから感じ取ることが出来た。

●「リズ鳥」全体としての個人的感想

 感想が言葉にならないのが正直なところだ。山田監督の追求する映像のリアリズムに飲み込まれてしまい、「リズ鳥」というあまりに濃密な映画を必死で体験する90分となってしまう。

 みぞれと梨々花のオーボエや、最後の第三楽章の演奏や、大好きハグのシーンは素直に涙が頬を伝う。また、2羽の鳥が飛ぶシーンで「これがみぞれと希美出会って欲しい」という直感的な思いがふくらみ、目頭が熱くなる。

 視聴後の感覚は、他作品の名前を挙げるのは恐縮だが、「花咲くいろは」の最終話や「秒速5センチメートル」の第1章の視聴後感に近いものがあった。それはつまり、この先に続いて行くであろう人生の茫漠とした時間に対する、言いようのない不安感だ。

 これほどまでに濃密で愛に溢れた人間的な彼女達の数ヶ月の青春の時間も、その先に横たわる膨大な時間と比べれば、ほんの一瞬。その寄る辺のなさがあまりにも怖くて、僕は「リズ鳥」を見てからしばらくの間、慢性的な情緒不安定状態となっていた。

 三回目の鑑賞を経て、その状態はようやく治まったかと思う。不安が無くなったわけではないが、ひとつ言えることは、「僕はただ、よく見なければいけない」ということだ。

 みぞれの息遣いを、希望の言葉の抑揚を、彼女達の音楽を、よく見てよく聴くこと。そしてそれらを十分に自らの心に染み込ませること。自らの魂の中に「リズ鳥」の物語を生かし続けてやること。

 僕はきっと「リズ鳥」の全てを理解することはできないだろうが、それでも真剣な気持ちを持って彼女達を見つめることは出来る。僕が彼女達に歌ってやれる人生の応援歌は、それしかないと思うのだ。